今日のプレイリスト。29回目の今回は「Lionel Hampton」です。
下北沢で行きつけにしているレコード屋さん「フラッシュ・ディスク・ランチ」で購入しました。
このお店は、私が世田谷に住み始めて間もないころからずっと通っているレコード屋で、お店がある限り有効なポイントカードは、50スタンプ貯まると15,000円以下のレコードを何枚買っても半額というやばいシステムが人気のお店です。
ライオネル・ハンプトンの華麗なジャズ人生
伝説のジャズヴィブラフォン奏者、打楽器奏者、バンドリーダー
ライオネル・レオ・ハンプトン(1908年4月20日 - 2002年8月31日)は、アメリカのジャズ界に輝くスターでした。彼はテディ・ウィルソン、ベニー・グッドマン、バディ・リッチ、チャーリー・パーカー、チャールズ・ミンガス、クインシー・ジョーンズといったジャズの巨匠たちと共演しました。1992年にはアラバマ・ジャズの殿堂入りを果たし、1996年には国民芸術勲章を受賞しました。
幼少期と音楽への目覚め
1908年、ケンタッキー州ルイビルで生まれたライオネルは、幼少期を母親と共にアラバマ州バーミンガムで過ごしました。その後、ウィスコンシン州ケノーシャを経て、1916年にシカゴへ移住します。少年時代、ライオネルは人種隔離のため入会できなかったボーイスカウトの代わりにバド・ビリケンクラブに参加していました。
1920年代、ライオネルは10代の頃にジミー・バートランドからシロフォンのレッスンを受け、ドラムを演奏し始めました。彼はカトリック教徒として育ち、シカゴ近郊のホーリー・ロザリー・アカデミーでファイフとドラムを演奏していました。
初期のキャリアとカリフォルニアへの移住
シカゴで新聞配達員バンドのドラム奏者としてキャリアをスタートさせたライオネルは、シカゴでルイ・アームストロングの演奏を目の当たりにし、その影響を受けました。1927年か1928年にカリフォルニアへ移住し、ディキシーランド・ブルース・ブロワーズでドラムを演奏しました。彼のドラム演奏には、スティックを回したりジャグリングするなどのスタントが特徴でした。
この時期、ライオネルはヴィブラフォンの練習を始めました。1930年、ルイ・アームストロングがカリフォルニアに来てライオネルを自身のバンドに採用し、ライオネルのヴィブラフォン奏者としてのキャリアが始まりました。ヴィブラフォンは、金属のバー、サステインペダル、電動ファン付きの共鳴管を備えた楽器で、彼はその普及に貢献しました。
ベニー・グッドマンとの出会い
1936年、ベニー・グッドマンのオーケストラがロサンゼルスに訪れた際、グッドマンはライオネルの演奏を聴き、トリオに招き入れました。このトリオはすぐにカルテットとなり、初めて人種統合されたジャズグループの一つとして観客の前で演奏しました。
ライオネル・ハンプトン・オーケストラ
1940年、ライオネルはグッドマンのもとを離れ、自身のビッグバンドを結成しました。1942年に録音された「フライング・ホーム」は大ヒットし、彼のオーケストラは1940年代から1950年代にかけて大いに注目を集めました。
後年の活動と社会貢献
1984年以降、ライオネルはアイダホ大学の年次ジャズフェスティバルで演奏し、1987年には同大学の音楽学校が彼の名前を冠しました。晩年は健康上の問題に悩まされましたが、それでも演奏活動を続けました。2002年、彼は心不全のためニューヨーク市のマウントサイナイ病院で94歳で亡くなりました。
ライオネル・ハンプトンの遺産
彼の葬儀では、多くの著名人が参列し、その功績を称えました。ハーレムのコットンクラブから始まるプロセッションは、多くの人々に彼の偉大な音楽と人生を再確認させました。ライオネル・ハンプトンは、その情熱と音楽を通じて、今なお多くの人々に影響を与え続けています。
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Spotifyでプレイリストも作ってますので、よかったらキャンプに行く車の中ででも聴いてみてください。